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第2話 幼き誓い

last update Last Updated: 2025-10-27 19:16:10

 朝の陽が、私邸の書斎を斜めに照らしている。

 広くはないが整えられたその部屋の中、セイランは静かに書き物を続けていた。

 卓上には、整然と並べられた書類と封蝋済みの報告書。

 私邸での朝も彼にとっては「執務の延長」であり、

 公務と報告が、日々絶え間なく届く。

 ペン先が紙を滑る音だけが、静けさの中に響いていた。

 そんなとき──

 襖の向こうから、小さな足音が近づいてくる。

 ぱた、ぱた、と。

 寝起きの足取りで、まっすぐに。

 セイランは、ペンを止めた。

 やがて、そっと扉が開かれる。

 そこに立っていたのは、寝間着姿のカイだった。

 目元は少し眠たげで、髪はまだ寝癖で跳ねている。

 けれど、どこか不安げに、足元に小さな枕を引きずっていた。

 セイランは何も言わなかった。

 ただ、手元のペンを静かに置いて、椅子を引いた。

 そして、無言のまま、腕を広げる。

 カイは一瞬だけ躊躇い、けれど次の瞬間には飛び込んでいた。

 すとん、と胸元におさまる。

 小さな手が、服の裾を握る。

「……おはよう、セイラン」

「おはよう、カイ」

 セイランの声は、いつもより少しだけ低くて、柔らかかった。

 しばらく何も言わず、ただ抱かれていた。

 小さな手が、セイランの服をそっと握る。

 髪が揺れ、鼻先が襟元に沈んだ。

 ─昨夜と同じ匂いがした。

 むせかえるほど甘く、微かに熱を帯びた香りが、胸の奥を揺らす。

 それは、ざわざわと、身体の内側を目覚めさせる匂いだった。

「……ねえ、セイラン。きのうの夢、変だった」

「どんな夢だった?」

「セイランが……誰かにつれていかれる夢」

 その言葉に、セイランの手が一瞬だけ止まる。

 目に見えて動揺したわけではない。

 けれど、ごくわずかに瞳が細められた。

「……誰に?」

 カイは、セイランの胸に顔を押しつけたまま、小さく息を吸った。

 ──言おうとして、言葉が止まる。

(アレクシス。僕のほんとのお父さん)

 でも、それを口にしてはいけない気がした。

 夢だと思っていたはずなのに。

 本当は、知っている。

 昨夜、あの光の中で見たものは──

 けれどカイは、ただ小さく首を振って言った。

「わかんない……でも、すごくこわかった」

「……怖がらなくていい。俺はお前を置いていかない。そう約束したから──」

「アレクシスと?」

 カイの言葉に、セイランの目が柔らかくなる。

「そうだ」

「……セイラン、だいすき……」

 その言葉は、呟いたカイ自身を包みこむように、ふわりと空気に溶けた。

 胸の奥に、あたたかくて、くすぐったくて、どうしようもないものがふくらんでいく。

 それは言葉だけじゃ足りなくて、こぼれないように、どうにかしたくて――

 カイは、セイランの胸に強くしがみついた。

 セイランは驚いたように瞬きをし、そして何も言わず、静かにその背中に手を回した。

 手のひらが、幼い背をゆっくりと撫でていく。

「……そうか」

 それだけを言って、やさしく抱きしめ、髪に小さくキスを落とした。

 カイが視線を上げると、その首筋に、赤い痕があった。

 鋭い牙で噛まれたようなその痕を、カイはしばらく見つめた。

 なぜだろう──胸の奥が、きゅう、と小さく痛んだ。

 それは誰かに奪われた証のように見えて、

 セイランが「自分だけのものではない」と、初めて理解した瞬間だった。

 唇を噛む。

 でも、言えない。聞けない。

 このぬくもりを、壊したくなかった。

「……セイラン」

「ん?」

「……大きくなったら、ぼく、もっと強くなるね」

「……ああ」

 小さな誓いのような言葉に、セイランの抱く手に力を込めた。

 外では陽が少し高くなり、書斎の窓辺に柔らかな光が差し込んでいた。

 朝のぬくもりが、そっとふたりを包んでいた。

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